ヨチヨチ母日記

アラフォーで妊娠・出産した母の日記

「あたしおかあさんだから」は何が問題なのか

「あたしおかあさんだから」炎上騒動

絵本作家のぶみが作詞した「あたしおかあさんだから」の歌詞が「母性信仰の呪いの歌」であるとして炎上しています。毒親育ちとしてもこの歌詞は許容できんな!と怒りがメラメラわいてきたので、問題点などをまとめてみました。togetter.com

 歌詞の内容は以下の通り。

一人暮らししてたの おかあさんになるまえ
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって 強がってた

今は爪きるわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだから

あたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの
あたし おかあさんだから
新幹線の名前覚えるの
あたし おかあさんだから
あたしよりあなたの事ばかり



もしもおかあさんになる前に戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブにいくの 自分のために服買うの
それぜんぶやめて いま、あたしおかあさん
それぜんぶより おかあさんになれてよかった

 「あたしおかあさんだから」は何が問題なのか

母親の自己犠牲を賛美

歌の中では「あたしおかあさんだから」と自分に言い聞かせるように、産前に楽しんでいたあらゆることを我慢する母親像が描かれています。歌詞の中に父親の姿は見当たりません。おそらくこの母親はワンオペ育児のために仕事を辞め、パート勤めをしていいるのでしょう。自分の楽しみを全て捨てて全く幸せそうではないのに、「おかあさんになれてよかった」となぜか根拠ゼロで締めくくっています。母親は自分を犠牲にして子育てするのが美しい!それが女の幸せだ!と言われているようです。

この歌詞を見たときに、私もゾゾゾーと背筋が寒くなってしまいました。というのも、私の母がこれと全く同じようなことをずっと言っていたからです。

「子どもがいるから私は好きなように生きられない」

「あんたたちのせいで貧乏になった」

「太ったのはあんたたちを産んだせい」

こういう母親の愚痴を聞いて育ったせいで、私は「自分は生まれてこなければ良かったのだろうか」と思うようになってしまい、やたら厭世的な子どもになってしまいました。

我慢は毒親の始まり

世の中の大半の母親は聖人君子ではないので、過度の自己犠牲を強いられればその怒りのはけ口を自分より弱い存在、つまり子どもに求めてしまいます。さらに我慢のストレスが強ければ強いほど、思い通りに子どもが育たないとき「私はこんなにしてやっている”のに”」と自分がかけた労力の対価に見合わない子どもを責めるようになります。子どもを自分の愚痴のサンドバッグにし、完璧な子どもを求めるようになる。これこそ毒親の始まりです。

聴いた子どもに罪悪感を持たせる

この歌が子ども向けチャンネルで放映されたものだということも気になりました。基本的に視聴者は子どもたちです。この歌を聴いた子どもたちは「お母さんは自分のためにやりたいこともできずに我慢している」というメッセージを受け取り、罪悪感を持ってしまうのでは。

女性の仕事をバカにしている

「ヒールはいて ネイルして 立派に働けるって 強がってた」 「いまはパートいくの」で読み取れるのは女性の仕事軽視の姿勢です。女は独身時代は着飾って男たちに混じって「強がって」働いており、子どもを産んだらパートぐらい、女の仕事は結婚・出産までの腰掛けなのだという考えが透けて見えてしまうのです。いつの時代だよ。

「あたしおかあさんだから」は育児問題の象徴

ここまで考えると、「あたしおかあさんだから」は、ワンオペ、母性信仰、女性の仕事軽視と日本の育児環境を取り巻く問題の象徴なのではないかという気がしてきました。日頃からこの問題に直面している育児中の女性たちにとっては、これがラストストローのようなもので一気に怒りが噴出したのでしょう。

その一方で男性たちが「なぜ炎上しているのかわからない」というのも理解できます。当事者以外にはピンとこないからこそ、待機児童は解消されず、少子化を止める政策が作れない。一番の問題はこの歌を出す前に「これはマズイよ」と止める大人が誰もいなかったし、いまだに理解できない人がたくさんいる社会だということです。

のぶみは「あたしおかあさんだから」をどう書くべきだったのか

のぶみはお母さんたちへの応援歌のつもりで作ったと言っているようですが、それならば子どもを産んで良かったことの具体例を書き連ねた歌詞にするべきでしたね。我慢を延々歌った上で「あたしおかあさんになれてよかった」って、結論を支える具体例が歌詞のどこにもない。

Twitterでは書籍化されたブログ「ママの毎日」の詩を模倣したのではないかという声も出ていました。

ameblo.jp

たしかに過去と現在の対比が似ています。ただ、この詩は子どもが成長して離れる未来を想定した上で、現在のなんでもない日常を大切に思っている点が胸を打つのであって、過去できていたことを我慢しているだけじゃないんですよね。のぶみはそこを見誤ったのか。

逆説は文章ではとても強い効果があって、マイナスからプラスに振れると感動的になります。歌詞の一番はできなくなったこと、歌詞の二番は子どもを産んでできるようになったことを入れたら、こんな大騒動にならなかったのかもしれません。